花月草紙
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松平定信は「寛政の改革」の主導者だから当然に江戸時代の人で、文章もいわゆる古文に近く、旧仮名遣いの文語体で書かれているが、読み始めるとこれが味わい深くて素晴らしい。
日本の古い作品はタイプライターやワープロなど勿論ない時代のものだから、多くが文庫本で読んでも厚さは薄く全体の分量も少ない。
本居宣長のものでも古事記伝などを除けば、『うひやまふみ』をはじめとして大概は短く簡潔な作品が多い。
それに比べると現代の表音主義を原則とした口語体に限りなく近い文章で書かれたものには長いものが多く、その割には文章自体には味わいがない作品が多い。これはどうしてだろう。
現代文で書かれたものの方が読みやすいので、その結果無意識のうちに読み飛ばしてしまっているのだろうか。
それに比べると古い作品はじっくりと読まざるを得ないので、味わって読むという結果になるのだろうか。
そういうこともあるのだろうけれど、僕はやはり文語文に対する感覚が日本人のDNAにより深く埋め込まれているのではないかと思う。
そう考えると、文語文を捨てたことによって、日本人は多くのものを失ったような気がする。