幸田露伴
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「努力論」というと何やら気恥ずかしくなる様な書名だけれど、内容的には人生論だ。
ヒルティの「幸福論」と、書かれている事柄は違うけれど似たような趣の本で、内容的にはヒルティに勝るとも劣らない。
ところが、この高々100年程前に書かれた本が、旧字・旧仮名遣いであるがためになかなか読むのが難しい。
幸田露伴が再刊に際して書いた序文で、前に出版された版は「版を重ねること数十回」で紙型も擦り減って印刷に耐えない状態になったと書いているので、当時の相当大勢の人々に読まれた所謂ベストセラーだったのだろう。
幸田露伴という人はかなり真面目な人だったらしいのでハッタリで言っているのではなく、事実相当大勢の日本人に読まれたのだろう。
高々100年ほど前に大勢の日本人に読まれてベストセラーになったような本が、読むのに困難を感じるほどに読みにくいというのは一体どうしたことか。
平均的な日本人と比ると、自分は旧字・旧仮名遣いの本でも読める部類の人間に属すると思う。にも拘らず、それでも読みにくい。
内容的にはヒルティに勝るとも劣らない書物であるにも拘らず、これだけ読みにくいということは多分現在では殆ど読まれていないのではないだろうか。
これは文化の断絶とも言えるのではないだろうか。
旧字・旧仮名遣いは、戦後に新字・新仮名遣いが強制的に使われるようになったためにそれまで書かれていたものが全て旧字・旧仮名遣いとなったことによって発生したものだが、これほどまでに文化の断絶をもたらすものだということを自分自身の体験で実感して身震いするほどに驚いた。
千年・二千年の単位で築き上げてきた文化の積み重ねが、たった一度の文字・仮名遣いの制度変更によって、これだけの断絶を引き起こすものであるとはとても驚きだ。制度を変更した当時の当事者達はそのことに気付いていたのだろうか。
先人による努力の積み重ねという背景を欠いた文化は重みのないものになってしまう。
今の世相や文化が何か軽佻浮薄なものに感じられるのも、こうしたことの積み重ねによる文化の断絶によるものなのではないだろうか。